米造幣局が1セント硬貨の生産を終了した。製造・流通コストが額面価値の4倍近い3.69セントに達したためだという。232年間の歴史に幕を閉じた1セント硬貨。このニュースを読んだとき、これは単なる経済合理性の問題ではなく、貨幣というものの本質的な矛盾を突きつけられた気がした。nikkei+2
きっかけ――矛盾を抱えた「価値」
日本経済新聞の記事を読んで、ふと考えた。貨幣としての価値よりも、そのものの素材としての価値が上回ってしまうという矛盾。実は、これは貨幣の歴史そのものではないだろうか。nikkei+1
1セント硬貨は1982年から、銅めっき(2.5%)を施した亜鉛(97.5%)で製作されていた。それでもなお、主材料の亜鉛価格がパンデミック以降に急騰し、製造コストは額面の4倍近くに達していた。つまり、1セント硬貨を1セントとして使うよりも、溶かして素材として売った方が利益が出てしまう状況だったのだ。biz.chosun
「悪貨は良貨を駆逐する」という真実
この現象には歴史がある。「グレシャムの法則」と呼ばれる経済法則だ。品位の異なる2種類の貨幣が同時に流通すると、質の悪い方の貨幣が通常の取引に用いられ、質の良い貨幣は貯蔵されたり、鋳つぶされて海外に流出してしまう。一般には「悪貨は良貨を駆逐する」として知られている。wikipedia+1
つまり、貨幣の額面価値と実質価値(素材価値)に乖離が生じた場合、実質価値の高い貨幣は流通過程から消えていく。人々は賢い。価値のあるものを手元に置き、価値の低いものを流通させる。これは何百年も前から繰り返されてきた人間の行動だ。wikipedia
私たちは何を握りしめているのか
ここで、自分自身に問いかけてみる。今後、円やドルの価値がどんどん上がると本気で思う人が、どれだけいるだろうか。そんな人はなかなかいないと思う。むしろ、インフレによって現金の価値は少しずつ目減りしていく。年間のインフレ率が2%の場合、100万円の現金は1年後には98万円相当の価値になってしまう。musashi-corporation
それなのに、実際には円を握り続けている人が多い。私自身もそうだ。銀行口座に預けられた円、財布の中の紙幣。これは一体何なのだろう。信頼なのか、惰性なのか、それとも他に選択肢がないという諦めなのか。
貨幣の歴史を振り返りたい
考えれば考えるほど、貨幣の歴史そのものに興味が湧いてくる。最初の貨幣は、銀や金などの重さをはかり、その重さを価値の単位として支払う「秤量貨幣」だったという。つまり、貨幣そのものに実質的な価値があった時代だ。shisaku
その後、時代が進むにつれて、紙幣が登場し、価値基準は物質から紙へと移行していった。江戸時代には、各藩が財政難のために藩札という紙幣を発行していた。物から金・銀等の物質へ、そしてそれらを併用しながらの紙幣の発達。この流れの中で、貨幣の価値は「信用」という概念に支えられるようになった。jalan+1
貨幣博物館に行きたい
日本橋にある日本銀行金融研究所貨幣博物館に行きたいと思っている。たまにXで「貨幣博物館良かった」という報告が流れてくる。最古の銭である富本銭や和同開珎、江戸時代の小判など、紙以外のお金の展示が豊富だという。お金の歴史がとても分かりやすく展示されていて、価値基準の変遷を実際に目で見て確認できるらしい。jalan
無料で入館できるそうだが、入口では飛行機に乗るときのような厳重なチェックがあるという。それもそうだろう。貨幣の歴史を守る場所なのだから。その場所で、古代から現代までの貨幣を見つめながら、「価値とは何か」という問いに向き合ってみたい。jalan
この時点での考え
今のところ、私はこう考えている。1セント硬貨の終了は、貨幣というシステムの転換点を象徴する出来事だ。これから先、物理的な硬貨や紙幣は減っていくだろう。デジタル通貨の時代が来れば、製造コストの問題はなくなる。reuters+1
しかし、それでも変わらない問いがある。私たちは何を信じて、その「価値」を握りしめているのか。それは国の信用なのか、経済システムへの信頼なのか、それとも単に他に選択肢がないからなのか。
この問いに明確な答えは出ていない。だからこそ、貨幣の歴史を振り返ってみたい。過去を知ることで、現在の自分の立ち位置が少し見えてくるかもしれない。そして、貨幣博物館で実物を見たとき、また新しい違和感や気づきが生まれるのではないかと思っている。